「……まあ、座れ」

そこで最初に発せられたのは、先ほどとは違う静かな声で。
多分いわれたのは目の前の椅子に座れということだろうと理解して、
ボロボロになった古びた椅子に遠慮がちにすわると、目の前にカップが置かれた。
「……ココアだ。まあ飲めるなら飲むといい」
ぶっきらぼうにそういったあと、
向かいの椅子に座った老人と、ふんわりと立つ湯気のギャップに、
思わずまじまじと二つを見比べてしまったのはまだ子供だったからか。

全てを諦めて、自分がやった、と老人に宣言した後、
先ほどとは静かな調子で、それなら家に来いとくるりと背を向けた老人についてきたのが先ほど。
てっきり鉄拳やそれは聞くも恐ろしい怒声でがなりたてられること間違いなしと踏んでいたのだが、
老人はそれっきり一回も喋らず、ただもくもくと割れたガラスの破片を集めたあと、
ジュランに最初にしたのは、椅子に座れという、想像していたものとは全く違うものだった。
何かの陰謀なのか、それともこれからどやされるのかと様子を窺がっていたが、
老人は向かいに座ってもなお、自分の分のカップでお茶を飲んでいるだけで
何かを起こそうとする気配は微塵も感じられない。
これは一体全体どういうことだろうかと考えあぐねていると、
向かいからコトリとコップが置かれる気配がした。
「……飲んでないな。ココアは嫌いだったか?」
「いえ、好き、です」
「そうか。飲めるなら今のうちに飲んだほうがいい。今の季節は冷えるのが早いからな。」
それだけいうと、会話はぷっつり途切れた。
なんとなく、そのままの状態でいつづけるのも意味がない気がして、
おそるおそると目の前に出されたカップに手をつけて、ゆっくり口をつけてみた。
温かく甘いそれは、冷え切っていた体に心地よく響き、
何故だか、まるでそれが今の老人の心境のように見え、
そうか、この老人は今自分を敵視してはいないのだなと妙な納得を得た。
「……落ち着いたか」
ココアを飲み終わったと同時に、向かいから聞こえてくる声に、
こくりと頷いて、そしてじっと前を見ると、
そこにはぼさぼさ頭とヒゲはそのままだったが、
先ほどとはまったく違って落ち着いた瞳を持った老人が目の前に座っていた。
「あの……怒らないんですか」
老人の落ち着いた様子に、つと、本音が漏れた。
「……なんでそう思う」
逆に問い返されて戸惑う。
「だって……ガラス……割れて……」
「こんなのは、また買えば直るし、買わなくても張り合わせればどうにかなるもんだ」
「………………」
責められて、そして謝るという構図は、ここに来る前から幾通りもシュミレートしたのだ。
それなのに、全く予想だにしなかった相手の態度に、どうしていいか分からず、ただ言葉を失う。
すると老人はふうとため息をつくと、じっとジュランを見据えた。
「なあ、そりゃ俺は坊主から見れば、怖い親父だと思うが、
 だが、見くびってもらっちゃ困るな。周りの状況が一番見えるのもまた俺なんだ。
 この意味が、なんなのか分かるか?坊主」
じっと見つめられた瞳には曇りがなく、澄み切った色だった。
そして、遅れて理解がついてきた。
そうか、この人は……
「それを言った上で、もう一度聞くぞ、俺んトコのガラスを割ったのは、
 本当にお前なのか?」
最初の怒鳴り声とは違った意味で、大きくしっかりした口調で問われた。
今度は、前を見て、堂々といえる。
「……違います。僕じゃ、ありません」
ここまで来て、本当のことを言っても意味がない、という心の声も聞こえた。
だけど、いいんだ。これで。
だってこの人は……もう、分かってくれているのだろうから。

「……そうだ、それでいい」

老人は頷くと満足そうに笑んだ。
「……ったく、なんでそうなったかは知らんがな。
 子供がそんな全てを諦めきった目をするのはよくないぞ。
 してなかったら、してないと最後まで主張しろ。
 分かってくれない奴もいるが、分かる奴だっているんだぞ」
現に俺が分かっただろ、といって、老人は席を立ってこちらに来たかと思うと、
側でじっと目を覗き込んできた。
「……お前からは見えなかっただろうが
 さっきの連中の中には、お前じゃないと首をふって俺に知らせていた奴もいたんだ。
 だからそう、周りは敵ばかりだという目で人を見るな。
 それだと、分かってくれる奴さえ見逃してしまうことになるぞ。
 世間は、お前が思うより、捨てた奴ばかりじゃない。
 お前よりウン十年生きてる俺が保証する。
 ……だから、理解されることを諦めるなよ。分かったな」
そういうと、くしゃくしゃと頭をなでられた。
あまり人に触られるのは好きではないのだが、
この時ばかりは心地よかった。
「以上。俺からはこれだけだ。後は帰るなり好きにしてくれ。
 本当の犯人はこっぴどく後から叱っておくから、
 あとはザマアみやがれと見てるがいいぞ」
そういうと、老人は目の前のカップを持って、台所があるほうへと向かっていく。
「あの」
その背中に、はじめて心からの思った思いを伝えたくて、自然と呼び止めていた。
「ん?」
「……ありがとう、ございました」
自分の想像とはまるで違った小さい声でそういうと、老人はまたニッと笑っていった。
「ああ、また何かあったらウチに来い。話ぐらいは聞いてやるさ」

……それから、老人に会うことは一度もなかったけれど、
あの言葉とヒゲだらけの笑顔は、今でも心に残っている。


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