ぐらり、と頭が揺れる。
反射的に頭をかかえこんで、俯く。
ゆっくりと隣を見ると、
暗闇から、笑う口元が垣間見えた。
その瞬間感じた。ああ、『あいつ』が出てきたんだな、と
Identity wars
暗闇から体が抜け出たように、彼は飄々と僕の目の前に現れた。
『やあ、まだ、がんばっているみたいだね』
明るい声で、彼は僕に声をかけてきた。
表情は何の屈託もなく明るい。
しかし、瞳は赤だ。間違いなく。真紅の赤。
彼は屈んでいる僕の顔を覗き込むように、目を合わせた。
『そろそろ、観念したらどうだい?
今の状況はとてつもなく、苦しいだろう?』
明るい声で、そっと囁く。ふっと彼の息が耳元にかかる。
それには温度があった。しかし「温かい」なんてもんじゃない。
生ぬるく、ねっとりとした感情が、纏わり付いた温度だ。
僕は黙って彼から目をそらす。
反論するほどの言葉は持ち合わせていない。
しかし、彼の言葉に同意すれば、それは彼の思う壺だ。
だから耐える。目をそらして。
彼はそんな僕を楽しそうにみると、やれやれと大袈裟なため息をつく
『……まだ、ヤセガマンをしているんだね。
ああ、まったく、君は本当に頑固だ。
僕に全て明け渡せば、楽になれるというのに。
頑固通り越してバカだよ、君は』
バカという言葉に、反射的に身が竦む。
ああ、こんなことで反応したって、相手の思う壺なのに。
彼はそんな僕の変化を見逃さず、にやりと笑うとまた先ほど以上に僕に顔を近づけてきた。
『そう、君はバカだよ。バカで愚かだ。
何故、君はそうまでして守ろうとする?
仲間を信じたいのかい?だけど君が一番分かっているだろう?
人なんて、いつ裏切るか分からない』
耳元で彼はささやく。生ぬるい、温度で。
気持ち悪い。気持ち悪くてたまらない。
しかし、逃げようにも体はまるでいう事を聞かず、固定されたように動かない。
『現に君は裏切られてきたじゃないか。
顔も知らない親は君を捨て、名も知らない他人は君に怯えて近づこうとしない。
分かってほしいと何度思ったことか。
でも彼らはわかろうとすらしてくれなかったじゃないか』
言葉と共に、いやな記憶が蘇り、次から次へと脳裏に浮かぶ。
違う、ダメだ。
思い出しちゃいけない。
思い出しちゃいけない。
「……っ!」
必死に自分を言い聞かせて、鉛のように重い手でやっと耳をふさぐ。
しかし、その必死の行動も、彼にとっては余興にしかすぎないのか、
ますますゆがめた口をゆがめて、楽しそうにいった。
『……殊勝な努力だね。そこまでして、君は彼らを……仲間を、人を、信じたいのかい?
……だけど、どうだろうね。信じたところで何が変わる?
自分が傷つけられるだけじゃないか。
傷つけられ、傷つけられ……君は今までそうやって生きてきた。
はっきりいおう、他人はね、君のことを分かることはできやしないのさ。
だって彼らは君じゃない……そうだろう?』
だからさ、と彼は耳をふさぐ僕の手をそっと優しく取り除けて言った。
『だからさ、裏切られる前に……壊して、やろうよ。全部
僕なら、それができる。
こんなことでいちいち悩む必要もなくなる。
……君は楽になれるんだ。自由に』
それは優しい優しい言葉だった。
例えるなら甘い蜜のような。甘く優しい言葉。
ああ、本当に。この悩みを手放せるなら、どんなに、どんなに楽だろう。
甘い言葉に痺れたように、意識が薄らいでいく。
『そうそう、その調子だ。ゆっくりお休み。
…その間に僕が、君の悩みというかせを砕いてあげる。
君自身を縛るものを取り除いてあげる。
自由に……もっと、自由に……』
子守唄のような、声が、耳に、脳に響いてくる。
この身が自由になるのなら
それ以上に、心休まることなんて……
ゆっくりと意識が閉じ、瞼も閉じていく。
その中でふと彼の赤い瞳が映った。
血のように赤い瞳。
それは殺戮の赤。
炎の中で見た、戦いの中で見た、
人々の叫び、傷つき倒れいく人々の姿そのものの瞳。
殺戮と、破壊だけを望む、瞳。
……っ!!ダメだ!!!
思いと同時に、一気に覚醒する。
閉じかけていた瞼を無理矢理あけ、体を渾身の力を持って起こす。
「……ダメだ、君に、そんなことはさせない」
距離を取って、立った僕に、彼は驚いた表情でこちらを見た。
「確かに僕は今は辛いし、悩みなんてなくなればいい。
自由になりたいと思ってる。
だけど……壊してまで、自由になりたいなんて思ってない。
人を蹴落として得る自由なんて僕はいらない。
例え傷つけられてもいい。僕は壊したくない。僕は信じたい。
どんなに難しくても、分かり合えることを、僕は信じていたい。
だから、君に渡せない。絶対に。
僕は、信じる心を、捨てたくない……捨てたくないんだ!!!」
それは心からの叫び。心からの、本音。
ありったけの声で、叫び終えると、あたりに覆い始めていた闇が、
一気に晴れていくのを感じた。
それと同時に、闇から出てきた赤い瞳の彼もうっすらと消えかかる。
『ちっ……今日も、僕の負けか……まぁいい。
今日が終わってもまた次がある。
君を掌握するチャンスがまた一つ消えただけで、
チャンスは無限にあるんだからね。
必ず、僕は君になってみせる……必ず……』
そういい残すと、彼の言葉の余韻と共に、彼は僕の中から姿を消した。
「ふう」
彼がいなくなった白い空間に僕は腰を下ろした。
今日も、なんとか勝てた。いや、かろうじて勝てたといったところだろうか。
殺戮と破壊を望む彼と、
平和と信頼を望む自分。
戦いは、終幕を迎えることはない。
今日は勝てたが、次、また不安になれば、きっと奴はやってくるのだろう。
誰よりも、恐ろしく、誰よりも手強い自分とは正反対の自分。
彼に、自我を渡してはいけない。絶対に、必ず。
もう一人の自分に負けてしまわないように、『僕』は今日も自分というものを見つめ続ける。
fin
あとがき。
ジョシュアの、自分の心の闇との戦い。
闇との戦い、誘惑は常にあり、それはなくならない。
けれど、毎回耳をかさないように、闇の声を払いのけつづける。
それが大事なことではないかなと思っています。
……今回は少し趣向を変えて、背景をグラデにしたり、
文字に効果をつけたり、よりビジュアル的にしてみました。